地蔵堂というのは、なぜか、このように三叉路に建っていることがある。 まずは、寛政8年(1796)造立の「向台の地蔵尊」=中野区弥生町。 大正期初めまで...
今回の路地散策立花町も松山市大空襲の戦災に遭ってない。松山市の商店街の中心地であった湊町や大街道は、空襲によって焼き尽くされた。そのため湊町、大街道の商店主は、戦火を免れた立花町に間口を借りて商売をはじめたので、戦後直後の一時期松山市の中核商店街が、立花に移るという現象が見られた。・・立花橋~伊予鉄道立花駅の間(590m)の、旧国道33号線両側に商店が集中していた。昭和20年12月26日には、市駅前に伊予鉄マーケットが、また翌昭和21年いよや百貨店が湊町3丁目に開店するとともに、同年10月6日には、三越百貨店松山支店が一番町に出店した。このようないわゆる老舗の百貨店やスーパーの開店に刺激されて、湊町・大街道にあった各商店が、それ以後徐々に営業を再開し、再び松山市の商店街の中心地は、湊町・大街道に移動し、松...松山市の路地その3立花町
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